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卒業生たちに、明石小学校への思いを書いてもらいました

「私の歴史の一部・明石小学校」               あおいさん

私は現在35歳、息子が一人いる普通の主婦ですがここまで心身共に健康で無事に生きてこられたのは幼少から中学時代までを過ごした中央区での思い出が大きな支えになっていることは間違いない。

 3歳の時、立石から警察の寮であった新明石荘に移り、多感な時期までを下記の学びやで過ごした。

幼稚園⇒明石幼稚園 小学校⇒明石小学校 中学⇒銀座中学校

小さいながらもこの明石町付近のちょっと外国チックな風情と築地市場の粋なムードの混ざった空気が何とも言えず好きだった。聖路加ガーデンが建つずっと前は綺麗な桜の咲く大きなお庭で花見をしたし、隅田川の花火大会もまだ大きな建物がない間はよく見えていた、そんな都会ながらものんびりした地区の中にずっしりと佇む明石小学校・幼稚園。

 その周りは数々の歴史を十字架の塔からずっと見守って沢山の命を救ってきたであろう聖路加病院、看護婦さん達の寮、こじんまりしながらも凛とした教会などに囲まれ、毎日通う道すがらその風景を見ては「どんな外人の看護婦さんがいるのかな?」「でもちょっと不気味だな」と子供の精一杯にできる想像を膨らましながら通ったものだ。

 当時はもの凄く長く感じた一本道を超え、明石の玄関にたどり着くとステンドグラスの暖かな光と重厚な存在感のある重いドアが「今日も楽しく過ごせるといいね」と話しかけてくれるように出迎えてくれ、ホッとしていたのを思い出す。

 教室に上がるまでの、派手ではないが時間と共に艶を増した手すりや階段、廊下を子供ながらに「何だか味があるなぁ〜」と何度触ったことだろう。

また4年生から始まるクラブ活動で私はバトミントン部に入り卒業まで部長という大役で講堂に入り浸る生活となる。
 たとえば夏休みのうだるような暑さの中、暗幕を引き、窓を締め切り、まさに大型サウナのような状況の中で朝から出向き一度昼食で帰宅してまた午後から練習という日々を飽きることなく繰り返した。
 また極寒の冬、自分が動かなければ一向に温まらない冷たい講堂で必死にかいた汗。などなど・・その時の講堂の中の異様な匂い、湿り感、舞台のすそで汗まみれの体操着を何度着替えたであろう・・。リアルな感覚がしっかり残っている。
 きっとあの講堂はそんな熱心な子供達の汗や涙の全てを吸収しつつも朽ちることなく受け入れ続けてくれてたのだと約25年建とうとしている先日、見学に行った際に改めて感じた。

他の教室や校庭、朝礼台、プールや外観においても我々がお世話になった時からちっとも変わってなく、むしろ新しく感じたことに心底驚いた。そして新たな校舎にしてしまったら二度とこの空気感は創り出せない時代に今はある・・と危機感を感じた。

さらに、ここで得た友人は今でもガッツリつながっている。みんな素直で優しいのだ。そうやって育ててくれた先生方も素晴らしかった。今でも明石での思い出話しがあればそれだけで何年も会ってなかったブランクが帳消しになってしまう。そしてパワーをもらえる。
  それはこの、もの静かだけどいつも「大丈夫だよ。。何かあったら戻っておいで」と優しく包んでくれている存在感の明石小がここにある!というみんなの心のオアシスでつながっているのだと確実に感じる。

 どうか、どうかそんな大きな心の支えとなっている小学校をこれからの純粋な子供達の為に残しながら活かして頂けたらと、

一、平凡な主婦ながら明石小学校卒業生としての誇りを持ちつつ強く願います!

「消えていく、ふるさと」                   ふみたかさん

世の中がバブル景気に向かう中、自分の住んでいた中央区湊町は、銀座等への好立地からなのか、格好の「ターゲット」になっていたような気がします。
 ひしめき合うように建っていた家が、ボコボコと、そこかしこに「空地」が出来て、何人かの、少なくない数の知り合いや同級生が引っ越しをして行きました。
 そして、バブル崩壊。空地の目立つ街並は、そのまま、そこに取り残されました。。

そしてそれは今もそのままです。

  かつては夕暮れには、買物をするお母さんや、おばあちゃん、家に向かうお父さんや子供達、銭湯に向かうおじいさんで、人通りの多かった町が、数年前の夕暮れ、たまたま仕事で通った時は、人も歩いてなく、ゴーストタウンみたいになっていたのは、結構なショックでした。
 そして、出来上がったマンションには、「〜銀座東」というマンション名が。売り出すには格好のネーミング。でも、中央区湊町っていう名前すら、消してしまうのか。売る側にも「ビジネス」という理由があり、住む人にはなんの罪も無いけれど、なぜかとにかく腹が立って仕方が無かった。

 そこに、昨年末に聞いた、母校の明石小学校の建て替え話。

 いろいろ聞いてみると、耐震性にも問題ないのに、なんでだろうか?危険な箇所があれば、それはそこを直せばいいと思う。不便なところは、そこに「危険」が共存していなければ、不便を受け入れて教育に利用するくらいの寛大さは必要だと思う。
 なによりも大切にして欲しいのは、生徒たちに、自分の「バックボーン」をしっかりと理解してもらいたいことです。江戸時代は大名屋敷、明治には外国人居留地、という立地。関東大震災後に、当時の意匠と工夫を様々に盛り込んだ今の校舎が出来て、太平洋戦争の戦火を逃れて、現在まで、変わらずある存在。それがそのまま、教科書。その歴史を知る事は、自分たちの「今」と「過去」をリアルに感じられる格好の先生。それを無くしてしまったら、そこで歴史が止まってしまうのです。そこで終わりです。長く長く培われ、繋がって来たものが。
 会社の近くで近年、ビルが沢山建て替えられてます。よく、建て替えられた後の新しいビルを見上げて、「このビルが建つ前は何があったんだっけ?」と、よく思います。思い出せません。無くなれば、記憶から消えてしまうのは早いです。

 今のかたちを残したまま、なんとか必要最小限の改装で残せないのか。出来ない事はないはずです。なんで、こんな大事な話が、いつの間にか進んでいるのか。
もっともっと、慎重に話を勧めてもらいたい。どんなものでもそうですが、壊したモノは絶対に完全に元には戻らないから。


「やさしい気持ちを与える校舎」                   さとるさん

母校を訪れる度、何とも言えない感じを受けていた。懐かしさ、甦る思い出、それは確かだが、もっと内面的な何か。

 例えば、夜空の星を眺めるような、綺麗な花を見つめるような、それらと似た感覚。
  そう、それはとても無邪気な「優しい気持ち」に満たされていることに気がついた。

保存活動を通じ、学校としての深い歴史と、建物としての充分な価値を知った今、それは格段なものとなり私を包み込んだ。

  思い出を懐かしむ時、限りなく優しい気持ちになれる。残念だが、そう感じたのは今の今になってからだった。しかし、それでも良かったと思っている。これこそが感受性を育ててくれたかけがえのない環境であったと言えるからだ。
 
 私が感受性豊かな人間か、それは判らない。ただ、あるものを理解し、それを労わる気持ちは少なからず知っている。そんな私の人間性を支えてくれた明石小学校に感謝をしている。そして、それを再確認できるかのように、今なお健在している校舎を誇りに思う。

  人は優しさを持って、誰かに愛し愛され、守り守られ生きてゆく。その通りに、人として何よりも大切な「優しさ」を与えてくれる明石小学校校舎を、私は愛し続けたい。そして、これからも変わらぬ姿で在ることこそが、よりたくさんの想いを私達に、今学ぶ生徒達に、そして未来の子供達に与えてくれるのだろうと、私は信じている。


「夢見る頃を過ぎても」                  しんごさん

歳を取るに連れ、夜寝ているときに夢を見ることが極端に少なくなりました。まるで大人になり受け止めてきた現実と未来へ抱く夢の量とが反比例している様で、そう考えるとちょっと寂しくなるものです。それでもたまに夢を見ます。何故か、夢の中の私は大抵まだ子どもで、そしてその舞台は、自分が中学生として登場しようとも高校生でも大学生でも、決まって小学校の校舎。どうやら私の中で『学校』というと、それは『明石小学校』を意味しているようなのです。自意識が芽生えてから社会に出るまで、家庭以外で最も長い時間を過ごす場所が、ほとんどの人にとって小学校ですね。

子供の頃に覚えたことって、大人になっても体に染み付いて忘れないですよね。語学とか自転車の乗り方とか楽器の演奏の仕方だとか。それと同じようなことが些細な日常の学校生活でもきっと起きているんです。今でもはっきりと思い出せます。板張りの廊下を歩く時にきしむ音、上履きとそれを通して感じる校庭の感触、見上げた青い空に高々とそびえる聖路加病院の十字架、黒板消しとチョークの粉の匂い、ランドセルの傷み、大好きだった給食のメニュー、チャイムの響き、体操服にアイロンで転写された校章とそのザラザラした指ざわり、不気味だった廊下の壁からこっちを見つめるモナリザの複製画、まだ理解できなかった淡すぎる恋心、夏の日差しと日陰の優しさ、図工室の無骨な作業台、走り回った屋上のフェンスを鷲掴みにした感触、ひんやりした鉄棒、ジャングルジムのてっぺんからの眺め、優しかった先生の笑顔と、怖かった先生に呼ばれる自分の名前、下校時の夕日、クラスの仲間の笑顔と笑い声。数え上げたらキリがない程の、心と身体の記憶。

この冊子に何かを書いて欲しいと言われて、改めて『何で建て替えをして欲しくないのだろう?』と自問してみました。その根っこは、やはりこの、心のふるさとに出来るだけずっと在り続けて欲しい、という、例えば自分の親に出来るだけ長生きして欲しいと誰もが感じるような、とても純粋で自然な思いでした。ここの要望書にある内容は、極めてシンプルに取るとすれば、すべてこの理由など必要のない自明で自発的な気持ちから導き出されているのだろうと気が付きます。

学校って不思議なところです。毎年毎年新入生を迎え卒業生を送り出し、そこで時を過ごす個々人は全く入れ替わっていくのに、ずっと変わらずに同じ年代の子ども達はその中で生き続けてます。誰もが同じように、様々な思いや感覚を身体に刻みながら。そしてみんな、その学校の卒業生となります。どんな若い人も、私達も、お年寄りも、みんな卒業生となって、違いはあれどそんな身体に刻み込まれたものを郷愁とともに思い出すのです。

だから私はこの要望書に署名をすることにしたんだと思います。『心のふるさとに、出来る限り長生きして欲しい』。建物としてもう寿命が尽きようとしているのなら、その時は涙と共にさよならしよう。でも、そうでないのなら、みんなの思い出の場所はみんなで守ってあげたい。素直な、子供の頃と変わらない、でも大人になった今だからこそ気が付くことの出来る純粋な気持ちです。

まだ明石小学校は元気なんだから、夢に見るだけではなくて、また遊びに行ける場として心の支えの一つであって欲しいと、いい大人になっても、将来の夢も夜見る夢を失い始めても、いや、だからこそ、そう願わずにはいられないのです。


結びにかえて―明石の証し             なかむらけいこ

 私には、愛する家族がいます。愛する友達がいます。そして愛する母校があります。

  この活動を始めたときに、正直なところ、これはエゴでしかないのではないか、と思いました。今の在校生の気持ち、関係者の方々の気持ちも知らずに、ただの卒業生が「愛する人たちとの思い出の詰まった校舎だから、残してほしい」という理由で始めるのですから、確かにエゴといえばエゴだと、今でも思っています。けれど、家族や友達を愛するのも、エゴです。少なくとも人のためではないのですから。それに私は、他の人がなんといっても、この人たちを愛するのをやめることはできないでしょう。それと同じように、母校を愛することもやめられないのです。あの懐かしい校舎がなくなって欲しくないと思うのをやめることはできません。これはもう、仕方がないのです。惚れたが悪いか、ということです。

社会科の授業では、自分の周りの小さな単位から学びますね。「わたしたちの中央区」から「私たちの東京」という具合に。しかし「私たちの明石小学校」は、学んだ覚えがありません。生まれて家庭という一番小さな単位から外に出る初めての場所は、幼稚園、そして小学校です。本当は「わたしたちの中央区」よりも先に学ぶべきなのではないでしょうか。

凄惨な大震災を経験したその3年後に作ってくれた学校であること、とても子どもたちのことを考えて作られていること、太平洋戦争では聖路加病院のおかげで空襲から免れたけれど、米軍に接収されたこと、その後また小学校として復活したこと…この活動を通してこれらの歴史を知って、誇らしい気持ちになりました。自分のおじいちゃんおばあちゃんが、とても偉大な人だった、と知ったような気持ち。しかし、私が知らないドラマもまだまだあったに違いありません。私は、もっと知りたいです。それこそ明石が、明石である証しなのですから。そしてそれを、今の子どもたちにも知って欲しいのです。

校舎がなくなってしまえばそのことは語られなくなっていくのです。これは、石碑だらけなのになぜかあまり有名ではない明石町が、身をもって教えてくれています。石碑と、隣のプレートを読むだけでは歴史は語り継ぐことが出来ません。歴史は、語り継ぐ者だけでは不十分です。語り継ぐ「物」が必要です。建物は雄弁な歴史の語り部です。

立ち止まって、もう一度考えませんか。「古いから壊すべき」なのか、「古いから残すべき」なのか。

お読みくださり、ありがとうございました。